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光明寺を訪ねて

 昨年12月16日、光円寺第17世住職神龍の命日に鹿児島県霧島市横川町の光明寺を訪ねました。

 光明寺は代々、日野家が住職を務めてきたお寺ですが、第16世住職居龍の代に代務住職を勤めていた慶円寺(現本堂)と合併して現在の光円寺となりました。明治36年、ご本山を介して、ご本尊と光明寺の寺号とは本願寺鹿児島出張所に移されました。

老僧(神龍)の夢を私たちの代で果たした訳ですが、残念なことに昭和47年の火災により本堂は焼失。ご本尊、仏具などの法宝物は全て失われていました。昭和50年(僅か3年!)、近代的なコンクリート造で再建。現在に至ります。

鹿児島県霧島市横川町の光明寺の外観

鹿児島県霧島市横川町の光明寺の第3世住職

 第3世住職の前原寛之師は実直な印象で、私と同年代とお見受けしました。保育園をやってみえて、子どもたちの声が賑やかに聞こえてくるのが好ましく感じられました。樹齢百数十年という銀杏の大樹があり(光円寺ではなくなってしまいましたが・・・)、地区のシンボルとなっているそうです。

鹿児島県霧島市横川町の光明寺の銀杏の大樹

 なぜ、遠く岐阜の地から鹿児島までお寺が移されていったのでしょうか?

鹿児島県霧島市のかくれ念仏

 旧薩摩藩では浄土真宗はキリスト教と同じく禁制となっていました。しかし、二七〇年以上に渡り、お寺をもつことなく、講を組織し、隠れて信仰を守り続けてきた門徒の人達がいらっしゃったのです。講は「番役」というリーダーを中心に、身分の区別なく組織され、「取次役」を通じて本山と繋がっていました。禁制にされた理由は種々研究されていますが、その一つが経済的な理由です。藩命に背いてまで信仰を続けることも面白くなかったでしょうが、本山に多額の懇志があがっていることが判明し、為政者は激怒します。弾圧は苛烈を極め、「石抱き」等の拷問が行われる等して、多くの門徒が命を失いました。にもかかわらず、隠れ念仏洞と呼ばれる山中の洞穴などで法座を開き、他藩の寺に参詣する、抜け参りが行われました(詳しい報告は次回に譲ります)。


 

 明治になり禁制が解かれると、長い間待ち望んだお寺が次々と誕生しますが、すぐに始まる廃仏毀釈の嵐で壊滅(島津家の菩提寺まで破却)します。西南戦争後、ようやく嵐も過ぎ去り、お寺が再建され始めますが、光明寺はまさにそのタイミングで移されたのでした。

 かくれ念仏の命がけのお聴聞の姿勢に感銘を受けると共に、庫裏から本堂までがなかなか遠くて参れない息子達に爪の垢でも煎じたくなります。皆さんは、本当に良くお参り下さいました。

本年も宜しくお願いいたします。 

岐阜県関市のお寺 光圓寺(こうえんじ)、鹿児島県霧島市のかくれ念仏にて