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さはりおほきに徳おほし

罪障功徳の体となる こほりとみづのごとくにて

こほりおほきにみづおほしさはりおほきに徳おほし

 七高僧さまのお一人、中国の曇鸞大師さまのお味わいをよろこばれた一首です。

 沢山の氷がとければ、沢山の水ができるように、いかに私たちの罪業(仏と成ることを障げるもの)が深くとも、仏さまのお慈悲の働きは、それをものともせず、お救い下さるのである。だからこそ、己の煩悩(罪業)の深さが知らされるだけ、「他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり(歎異抄)」とお慈悲をよろこばせて頂くことができる。この悲しみとよろこびとが交差する「私」が仏と成るべき「体」なのである、と。

 このような浄土教のエッセンスは、インドでも中国でも(欧米など他のどんな国々でも)定着することはなく、日本人独特の感性に受け入れられ、極東の島国で華開きました。

 仏教(聖道門)にしろ、キリスト教などの一神教にしろ、基本的には「廃悪修善」が説かれます。悪を慎み、善行を積んで「善人」になったものが救われる。・・・万人が納得出来る教えです。ところが、それで万人が救われるか、というと、そうではありません。それでは救われない、という人達がでてきてしまうのです。

 『深い河』の特集番組で遠藤周作氏がフランス留学中に、正邪を峻別し、神の正義を体現する側であろうとする教会の教えに馴染めず苦悩したことが紹介されていました。「愛」の神は「悪人」にこそ寄り添い、救いの手を差し伸べて下さるのではないか?

 日本人として、どこかで浄土真宗の影響を受けていたとしか思えないのですが、このような考え方は異端として、キリスト教の正統派からは、到底、受け入れられるものではありませんでした。

 ところで、篳篥(ひちりき)という雅楽の楽器があります。歴史は紀元前にまでさかのぼるのですが、音域も狭く、音程も不安定で、扱いづらく、海外ではあっという間に廃れてしまい、使われなくなりました。この扱いづらい楽器が、なぜか、日本人には愛でられ、改良することもなく(ヨーロッパでは木管楽器のオーボエや金管楽器のサックスに進化していきました)、演奏し続けられてきたのです。お待ち受け法要にお招きした深親(ふかみ)亮介師も、そのお一人ですが、エレクトーンとの共演で素晴らしい音色を新本堂に響かせて下さいました。

 阿弥陀さまは、私たち泥(どろ)凡夫(ぼんぶ)を、不完全なもの、悪と切り捨ててしまうのではなく、仏法を顕す機<き=器(うつわ)・場(ば)>とみられて、とどこまでも寄り添い続けて下さるのです。

 立派な人間になって救われるのではない。ありのままでいい。

 還暦を過ぎ、いろいろなことが間に合わなくなってゆく自分に気づかされますが、お慈悲のなか、篳篥のごとく、仏法が響く器でいたいです。称名