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聞思して遅慮することなかれ

誠なるかな 摂取不捨の真言

超世希有の正法 聞思して遅慮することなかれ

 

令和5年、ご本山で親鸞聖人お誕生850年立教開宗800年の大法要が勤まります(光円寺では、本年10月2日にお勤めしますので、是非、今から予定をしておいてください)

立教開宗とは、自らの計らいを交えることなく、仏さまに賜る「信心」ひとつによって、仏さまと成らせて頂くのである、というみ教えを、ご本典と呼ばれる『顕浄土真実教行証文類』という大部のお書物に明らかにされたことが「浄土真宗」の始まりとされるからです。巻頭言は、このご本典の制作意図を述べられた、「総序」とよばれる格調高い序文の一節からいただきました。

「よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなき(歎異抄)」という人の営みのなかで、「どのような存在もおさめとって見捨てることのない(摂取不捨)」という仏さまの真実の言葉、私たちの常識を超えた、出遇うことがまれな(超世希有)正しいことわり(正法)を聞き得たことは、何にも代えがたいよろこびである。この法をよくよく味わい、思いを巡らせて、自らの指針、生きる糧とすべきである。どんなものでも救われるなどということがあるだろうか、ある訳がないなどと決めつけてはいけない。もしそう疑うのであれば本当にそうかと真剣に問い吟味(ぎんみ)=聞思(もんし)するべきで、逡巡(しゅんじゅん)=遅慮(ちりょ)している暇などないはずである。

大変厳しいお言葉に感じられるかもしれませんが、私には、この「聞思」というお言葉の漢字の並び、音がとても心に響きます。また、「遅慮することなかれ」というお言葉も胸に迫ります。

「ほんとかな」「そうかもしれない」「よくわからない」こんなあやふやな想いの中には本当のよろこび、安心は訪れません。

ただ、ひたすら真摯に仏語に向き合われた親鸞聖人が、たしかに仏智は深く理解し難いものかも知れないが、必ず聞こえてくるものがある。ちゃんと自分の身に引き当て、自分の頭で考えてごらん、と勧めて下さっている気がするのです。

経済効率を優先し、役に立つか立たないかで物事の価値を決めようとする現代社会に於いて、自己肯定感を持てずに苦しんでいる人は多いのではないでしょうか。ましてコロナ禍に於いて「不要不急」などという言葉や、実際に職を失う人が急増しました。自死を選ぶ人が大勢いらっしゃること、また、その事に無関心な世相に心が痛みます。

世間からどんな不当な評価をされようと仏さまは私のことを「仏」となるべき唯一無二な「いのち」と尊重して下さいます。死んで終わりじゃない、我が国に生まれんとおもえ、と。

自己肯定感のなさとは長い付き合いでしたが、こんな私が仏と成るべき「いのち」を、今、どう生きているか?仏と成るべき「私」に求められる人格とは?と聞思し続けることで(よろこびよりは責任の重さが勝る気もしますが)、後悔や無念、恨みや憎しみの想いを随分、浄化して頂きました。

 

光圓寺納骨堂を「聞思堂」と命名させて頂きました。亡き人を偲び、仏さまと成った方々の願いを「聞思」していただけたらと願ってやみません。 称 名