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わがこころのよくてころさぬにはあらず~

岐阜県関市のお寺 光圓寺(こうえんじ)の巻頭言法味

わがこころの
 よくてころさぬにはあらず
また害せじと
 おもふとも
百人千人を
 ころすこともあるべし

( 歎異抄第十三条 )

 

 悪を慎み、善を行ずる事を疑問に感じる人はいないでしょう。誰もが悪人よりは善人になりたい、そう思われるような人でありたい、と思っています。けれども、誰もが自明のこととして顧みようとしない、まさに、ここに争いの根本があります。

 

 


 現在のコロナ禍の受け止めは①パンデミック(感染爆発)と、②インフォデミック(誤情報拡散)とに二分されます。私は②の立場ですが、マスコミの姿勢(両論併記をしない)に殺意すら覚えるほどの憎悪を抱いていることに気づかされました。

 本堂再建工事の進捗状況を見学に来た(宗教的感性が通じあう数少ない)友人の住職(彼のお寺も本堂再建中)に、悲憤慷慨、いかにマスコミが偏向報道をしているかを力説するのですが、ピンとこない様子。科学的なデータを色々提示するのですが、それは誰の説?と乗ってきません。

 現状追認。これって、何か変だ。自粛は本当に必要なことなの?と疑ったり、調べたりしようとしないのだろうか、W君ほど知性的な人ですら、マスコミの情報を鵜呑みにして、自分の頭で考えようとはしないのか、と絶望的な気分になりましたが、そのオーラを感じ取ったのでしょう。

 所詮、人間のやっていることだからさぁ・・・(彼等には彼等のデータ・理屈があって、反対派には反対派のデータ・理屈があるんじゃないの?)。・・・ それで、結局、日野さんは自分が正しいと思っているんだよね?

 もう、ドキーーーっとしました。

 

 まことに如来の御恩といふことをば沙汰なくして、われもひとも、よしあしといふことをのみ申しあへり。(歎異抄後序)

 

 現状追認。ただ、時流に流されて生きている、というのではなく、現状から出発する、という強い意志が感じられました。

 

 聖人の仰(おお)せには「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪(あ)しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩(ぼんのう)具足(ぐそく)の凡夫(ぼんぶ)、火宅(かたく)無常(むじょう)の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはこと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」とこそ仰せは候(そうら)ひしか。 (歎異抄後序)

 

 自粛の是非を論じるのが僧侶の仕事ではない、と。

 私は、自粛で、かなわんなぁ、しんどいなぁ、と嘆いている人達に、大丈夫、心配ないよ、自粛は必要ないよ、と伝えたくなるのですが、そのような社会改革を求められているのではなく、そうやねぇ、いつまで続くんだろう、はやく治まればいいですね、と同じ地平に立つことが僧侶の役目ではないかというのです。

 悩み苦しむ者達と同じ場所に生きる。たしかに、これこそが真宗的な感性だなぁと感心させられました。

 若院ともコロナ禍について意見がまったく合わず、イライラが募っていたのですが、W君と同じ感性だったことが分かりました(わたしより、よっぽど住職としての資質に恵まれているなと見直しました)。

 しかしながら、「何か本当のことが知りたい」と、幼少の頃から心の底に刻まれた想いを消すことが出来ません。また、私の中に、僧侶は(浮き世離れした立場であるからこそ)、世間の常識に囚われず、社会の有り様を観察し、利害と無縁に、変だと思ったことに声を上げていく責任がある、という思いがあり、戦争やハンセン病差別、部落差別に異を唱えた先達に、志だけでも同じくしたい、という想いが捨てきれないのです。

 「念仏のみぞまこと」に徹底しきれない自分を、今回は思い知らされました。ただ、「念仏のみぞまこと」をはずれ、「我こそは正義」という想いで行動することは慎みたいと思います。

 専門者会議、政府、マスコミの自粛方針はゼロコロナを目指すものです。それに対してウイルスの根絶は無理、ウィズコロナを目指すべきという考え方とは相容れません。けれども、どちらが正しいのかは、それこそ仏さまにしか分からないことなのでしょう。

 自粛による経済的ダメージは底知れず、女性や子どもたちの自死が急増、すでにコロナの死者を上回っているかもしれません。

 考えてみれば、政治家の人達はなんと重い責任を負わされていることでしょう。けれども、彼等の判断に、感染を恐れてマスクを外せない多数の国民の姿が影響しているとすれば・・・。いや、そう怖いわけではないけれども、しないよりはした方がいいと思う。・・・確かに地獄への道は善意で舗装されています。その人間の抱える罪業性を深く悲しみ、ナンマンダブツと喚(よ)び続けて下さっているのが仏さまなのです。

称名