南無阿弥陀仏をとなふれば
十方無量の諸仏は
百重千重囲繞して
よろこびまもりたまふなり
私の尊敬する先生がつねづね、
人間の心から地獄がなくなると、現実の世界が地獄と化します。
と口にされておられましたが、今の世相に、この先生の言葉を思い起こさずにはいられません。
親鸞聖人は、「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし(歎異抄13条)」と、わが身を案じてナンマンダブツと仏さまは寄り添って下さるのだ、とよろこばれ、「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」と自らを戒めていかれました。
ところで、私は「ウソをつくと地獄に落ちてエンマさんに舌を抜かれるぞ」と聞かされ、心底怯えた世代ですが、今の子育て世代の親はどうしているでしょうか?
小学生の頃、学級文庫に『地獄と極楽』というマンガ絵本がありました。人気があり、いつも誰かが借りていて、たまたまあると、必ず借りて帰りました。そのくせ、いざ読み始めると、恐ろしくて借りてこなければよかったと後悔したものです。我が子にも読み聞かせましたが、何度もリクエストされて、他の本じゃダメ?とお願いするほどでした。しかし、目に見えない世界への感性が開かれることは大切なことではないか、と思います。
そういう意味でお勧めの絵本がもう一冊あります。『いのちのまつり』です。自分が存在するために、どれだけのいのちのリレーがあったのか、直感的に理解が出来ます。大人になった時、チェスタトンの「死者の民主主義」という言葉もよく理解できることでしょう。現在生きている者だけの都合で物事を決めていくのではなく、今は亡き先人達が私たちに何を望んでいるだろうか?これから生まれてくる者たちは私たちに何を願うだろうか?という目に見えぬ存在への洞察がなければ、本当の民主主義は成立しない、という考え方です。
地獄・極楽をくだらぬ迷信・妄想と鼻で笑い、死んだら終わり、経済優先と、政府、役所、大企業まで仲良くデータを改ざん、ウソのつき放題です。どちらが迷信・妄想に取り憑かれているのでしょうか?
ただ、ウソをつくな、だけでは薄っぺらな道徳になってしまいます。
自分を、ウソを一度もついたことないかのような正義の場に置いて、他者を糾弾する者がネットに急増していないでしょうか。
ウソをつかずにはいられない自分といかに向き合うか。
そこに慟哭する者に、人生の先輩であるご先祖の方々が、今は仏さまとなって、ナンマンダブツと、百重千重に取り囲み、辛いね、どうして人間はウソをつかなければ生きていけないんだろう。悲しいね、と寄り添って下さるのだ、と親鸞聖人はよろこばれたのです。
称名