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聖典講座〈讃仏偈③〉

岐阜県関市のお寺 光圓寺(こうえんじ)の聖典講座 讃仏偈

*第一段②

 

 「讃仏偈」は、三つの部分に分けられます。

 第一段では、法蔵菩薩が、世自在王仏のお徳を誉め讃えます。前半は目に映る姿(身)を誉め讃えましたが、後半は説法の様子(口)と心境(意)を誉め讃えます。

 

正覚大音 響流十方 戒聞精進 三昧智慧 威徳無侶 殊勝希有 深諦善念 諸仏法海 窮深尽奥 究其涯底 無明欲怒 世尊永無 人雄師子 神徳無量 功勲広大 智慧深妙 光明威相 震動大千

 

 正覚(しょうがく)の大音(だいおん)、響(ひび)き十方(じっぽう)に流(なが)る。戒(かい)と聞(もん)と精進(しょうじん)と三昧(さんまい)と智慧(ちえ)との威徳(いとく)は、侶(ともがら)なくして、殊勝(しゅしょう)にして希有(けう)なり。深(ふか)くあきらかに、よく諸仏(しょぶつ)の法海(ほうかい)を念(ねん)じて、深(ふか)きを窮(きわ)め奥(おく)を尽(つく)して、その涯底(がいたい)を究(きわ)む。無明(むみょう)と欲(よく)と怒(いか)りとは、世尊(せそん)に永(なが)くましまさず。人雄獅子(にんのうしし)にして神徳(じんとく)無量(むりょう)なり。功勲(くくん)広大(こうだい)にして、智慧(ちえ)深妙(じんみょう)なり。光明(こうみょう)の威相(いそう)は、大千(だいせん)を震動(しんどう)す。

 

 正覚(おさとり)を述べられる大音声は、十方にあまねく響き渡っている。その正覚の拠って立つところは、六波羅蜜(ろくはらみつ)(布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・禅定(ぜんじょう)・智慧(ちえ))の行を完成させている事であり、それは世にも希で尊く、肩を並べられる者など存在しません。海の様に深く広い諸仏の法を、その奥底に至るまで究め尽くしておられます。それ故、貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)といった三毒(さんどく)の煩悩(ぼんのう)は、いつ如何なる時も、身に具(そな)わる事がありません。まさに英雄であり獅子(しし)の如く、その素晴らしさは、世界中の者を感動させずにはいません。

 この、始まりの「正覚大音」や、結びの「震動大千」には、ある記憶が呼び起こされます。一つは、高校時代に聞いたロックのライブ。大音量のビートに、音って空気の振動なんだ、と実感しました。そして、その歌詞とメロディーに心が震えるような感動を味わいました。また、「1/4の奇跡」という映画の冒頭に収められた監督の「感謝はするものではなく、湧き上がってくるものです」というコメント。理屈ではない。頭であれこれ考えても感動・感謝は起こらない。心の底からわき上がってきて自分でも吃驚(びっくり)するものだというのです。

 私の拙い経験と比べてはもったいない話ですが、世自在王仏のお説法を聞いて訪れた感動と感謝が想像できる気がします。

 それをさせてしまった世自在王仏もただ者ではありませんが、法蔵菩薩もスゴイ(当たり前か)、王位を捨て、その師仏の足下に身を投げ出して、自らの赤心、感激の想いをうたいあげたのが、讃仏偈なのです。