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聖典講座〈讃仏偈②〉

岐阜県関市のお寺 光圓寺(こうえんじ)の聖典講座 讃仏偈

*第一段①

 

 「讃仏偈」は、三つの部分に分けられます。

 第一段では、法蔵菩薩が、世自在王仏のお徳を誉め讃えます。

 尊敬する先生がよくおっしゃっておられました。

 「誉める」ということは簡単なことではありませんよ。お茶席では亭主が用意して下さったお軸やお花を誉めるものですが、ものの値打ちがよく分かっていなければ誉めようがない。「いいお軸ですねぇ」なんて適当にいうのは「お上手」といいます。分かっていても、そこに込められた亭主の心持ちを察することができなければ、お上手よりも嫌らしい知識自慢となります・・・と。

 何だか冷や汗が出てくる話ですが、法蔵菩薩は、どのように世自在王仏を誉められたのでしょうか。

光顔巍巍 威神無極 如是焔明 無与等者 日月摩尼 珠光焔耀 皆悉隠蔽 猶若聚墨 如来容顔 超世無倫 

 

 光顔巍々(こうげんぎぎ)として、威神極(いじんきわ)まりなし。かくのごときの焔明(えんみょう)、ともに等しきものなし。日月・摩尼珠光(まにしゅこう)の焔耀(えんよう)も、みなことごとく隠蔽(おんぺい)せられて、なほ聚墨(じゅもく)のごとし。如来の容顔(ようげん)は、世に超えて倫(たぐい)なし。

 

  まず、眼に映るお姿を誉め讃えます。巍巍とは辞書に①高く大きいさま②厳かで威厳あるさま とありますから、私の師たる仏さまのお顔は厳かに光り輝いて威厳に満ちており、その神々しさにひれ伏さない者はいません。激しく燃えさかる炎のような輝きは他に比べるものとてありません。日や月や、最も高貴な宝石の輝きであっても、師仏の光明におおい隠されると、墨の塊のようにしか見えません。この世界をありのままに知見し、安らぎの境地におられるだけでなく、苦しみ悩む私たちに寄り添い真実なる世界に導かんとする師のお顔やお姿は世に超えすぐれて、肩を並べることができる者など一人もおりません。 

 

 ・・・あまりにも壮大すぎて、これを私が言ったのであれば「お上手」以外のなにものでもないでしょうが、法蔵菩薩の眼に映ったお姿である、というところがミソです。

 王として、武威を誇り、善政を布きながら、全ての民を幸せにはできていない。なにより、己自身が後悔と不安のなかに、日々、悶々と過ごしているではないか。このままでは死んでも死にきれぬ。月日の光も心を明るくすることはかなわず、あらゆる財宝にも今は心安んじることはない。まるで暗闇の中をさ迷っている時に出会った世自在王仏の真理に安住せるたたずまいに、光り輝く希望の光を見いだしたのです。