*はじめに
私たちの日常のお勤めは、なんといっても「お正信偈」ですが、「讃仏偈」もよく勤まります。ご本山の朝のお勤め(晨朝)では、通常、阿弥陀堂で「讃仏偈」をお勤めした後に、御影堂で「お正信偈」のお勤めとなります。短いお勤めですので、研修会などでもよく用いられます。
短いけれども、大変有り難いお経さまですので、是非、親しんで頂けたらと思います。
「讃仏偈」は、『仏説無量寿経』上巻に説かれる仏さまを讃(たた)える偈(うた)です。仏さま、というとお釈迦さまや阿弥陀さまを思い浮かべますが、この仏さまは世自在王仏(せじざいおうぶつ)のことです。誰、それ?と言いたくなりますが、お正信偈に「在世自在王仏所」とちゃんとお名前が出てきます。
讃仏偈は、実に浄土教の原点ともいえるかも知れません。弥陀成仏の物語の出発点であるからです。
讃仏偈が説かれる直前に、その謂(い)われが述べられます。
爾時次有仏名世自在王如来応供等正覚明行足善逝世間解無上士調御丈夫天人師仏世尊時有国王聞仏説法心懐悦予尋発無上正真道意棄国捐王行作沙門号曰法蔵高才勇哲与世超異詣世自在王如来所稽首仏足右繞三帀長跪合掌以頌讃曰
そのときに、次に仏ましましき。世自在王如来(せじざいおうにょらい)・応供(おうぐ)・等正覚(とうしょうがく)・明行足(みょうぎょうそく)・善逝(ぜんせい)・世間解(せけんげ)・無上士(むじょうし)・調御丈夫(じょうごじょうぶ)・天人師(てんにんし)・仏(ぶつ)・世尊(せそん)と名づけたてまつる。時に国王ありき。仏の説法を聞きて、心に悦予(えつよ)を懐(いだ)く。すなはち無上正真道(むじょうしょうしんどう)の意(こころ)を発(おこ)す。国を棄(す)て王を損(す)てて、行じて沙門(しゃもん)となる。号(ごう)して法蔵(ほうぞう)といふ。高才勇哲(こうざいゆうてつ)にして、世と超異す。世自在王如来の所(みもと)に詣(もう)でて仏足(ぶっそく)を稽首(けいしゅ)し、右に繞(めぐ)ること三帀(さんぞう)して、長跪(じょうき)合掌して、頌(じゅ)をもつて讃(ほ)めてまうさく・・・
お釈迦さまが、阿難の問いに応えて、過去にお出ましになった53の仏名をあげ、その次の仏として世自在王仏のお名前をあげます。その仏さまの御代に、ある国の王様が説法を聞かれて感動し、王位を捨てて出家をなさり、法蔵菩薩と呼ばれる修行者となられたというのです。
そもそも、仏さまのお説法を聞いて感動する、ということがなかなかできることではありません。例えば、お経さんをお勤めしていて、こうしちゃおれん、私も悟りを開いて皆を救える存在となろう、と仕事や家庭を放り出して出家できる人がどれだけいるでしょうか?
それをさせてしまった世自在王仏もただ者ではありませんが、その師仏の足下に身を投げ出して、自らの赤心、感激の想いをうたいあげたのが讃仏偈なのです。