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なみだ石 涙にぬれて もだしけり~

岐阜県関市のお寺 光圓寺(こうえんじ)の巻頭言法味、鹿児島別院の境内、鹿児島別院にある親鸞聖人銅像前の涙石

なみだ石 涙にぬれてもだしけり

まことの命 ためさるるとき

 

 鹿児島別院の境内、親鸞聖人の銅像の前に、涙石と呼ばれる石が安置されています。

 説明版には「真宗禁制時代、役人たちは信者の疑いあるものを捕らえ、この石を抱かせて自白を迫ったと伝えられています。それで、信者たちの苦しみの涙がそそがれた石という意味で、涙石と呼ばれています」とあり、梅原真隆和上の句が添えられていました。

ちょうど降り始めた小雨に、石は、句のように、涙にぬれて静かに黙(もだ)しているかの様でした。

 「石抱き」と呼ばれる拷問は、三角の割木の上に正座をさせられ、石を抱かされます。骨が砕けて、そのまま絶命する者もいました。為政者にとってみれば、この想像を絶する苦痛に耐えさせる「教え」というものに恐怖を感じ、信者を根絶やしにすべく、より過酷な取り調べに駆り立てられたことでありましょう。

 


 物言わぬ石に、遠藤周作氏の「沈黙」で、役人が、信者の苦難に神は黙して何もしないじゃないか、と迫るシーンが思い出されました。黙して語らぬ石に「吾を憑(たの)め、必ず汝を護らん」との仏さまの声を聞き取ることが出来るでしょうか・・・。

まさに、まことの命(無量寿)が試されていました。

それは、苦痛に耐え、命を投げ出して辛抱すれば、ご褒美に良いところに連れて行ってもらえる、あるいは、心の底から仏を信ずれば、この苦難から逃れられる、という交換条件、取引ではありませんでした。

 

仮令身止 諸苦毒中 我行精進 忍終不悔

 

 たとひ身をもろもろの苦毒のうちに止くとも、わが行、精進にして、忍びてつひに悔いじ(讃仏偈)

 

 この苦難の真っ只中に、仏さまも共に苦しみ泣いて下さってある。
ナンマンダブツとご一緒して下さる。有難うございます。私は大丈夫・・・。

 石抱きの刑ほどではなくとも、 現代を生きる私たちにとって、現実は理不尽に満ち、思う通りにはならないことの連続です。その時に、権力に阿(おもね)るにしろ、神仏に縋(すが)るにしろ、何かの力に頼って、自らの思い通りに事を成そうとすることは、結局、同じ事です。理不尽に思われることをも、逃げることなく引き受けることができるかどうか。誰をも恨まず憎まず、許し愛していくことができるかどうか。自らの安楽ではなく、あらゆる人の安らぎを願えるのかどうか。

 涙石は、その前に立つ者に、後生の一大事、仏のいのちを生きる覚悟がお前にはあるか?と静かに問いかけてくるような気がします。