![岐阜県関市のお寺 光圓寺(こうえんじ)の巻頭言法味、鹿児島別院の境内、鹿児島別院にある親鸞聖人銅像前の涙石](https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=362x10000:format=jpg/path/sfa1666362acf30b5/image/i6f670624d6dc57b4/version/1637186663/%E5%B2%90%E9%98%9C%E7%9C%8C%E9%96%A2%E5%B8%82%E3%81%AE%E3%81%8A%E5%AF%BA-%E5%85%89%E5%9C%93%E5%AF%BA-%E3%81%93%E3%81%86%E3%81%88%E3%82%93%E3%81%98-%E3%81%AE%E5%B7%BB%E9%A0%AD%E8%A8%80%E6%B3%95%E5%91%B3-%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E5%88%A5%E9%99%A2%E3%81%AE%E5%A2%83%E5%86%85-%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E5%88%A5%E9%99%A2%E3%81%AB%E3%81%82%E3%82%8B%E8%A6%AA%E9%B8%9E%E8%81%96%E4%BA%BA%E9%8A%85%E5%83%8F%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%B6%99%E7%9F%B3.jpg)
なみだ石 涙にぬれてもだしけり
まことの命 ためさるるとき
鹿児島別院の境内、親鸞聖人の銅像の前に、涙石と呼ばれる石が安置されています。
説明版には「真宗禁制時代、役人たちは信者の疑いあるものを捕らえ、この石を抱かせて自白を迫ったと伝えられています。それで、信者たちの苦しみの涙がそそがれた石という意味で、涙石と呼ばれています」とあり、梅原真隆和上の句が添えられていました。
ちょうど降り始めた小雨に、石は、句のように、涙にぬれて静かに黙(もだ)しているかの様でした。
「石抱き」と呼ばれる拷問は、三角の割木の上に正座をさせられ、石を抱かされます。骨が砕けて、そのまま絶命する者もいました。為政者にとってみれば、この想像を絶する苦痛に耐えさせる「教え」というものに恐怖を感じ、信者を根絶やしにすべく、より過酷な取り調べに駆り立てられたことでありましょう。
物言わぬ石に、遠藤周作氏の「沈黙」で、役人が、信者の苦難に神は黙して何もしないじゃないか、と迫るシーンが思い出されました。黙して語らぬ石に「吾を憑(たの)め、必ず汝を護らん」との仏さまの声を聞き取ることが出来るでしょうか・・・。
まさに、まことの命(無量寿)が試されていました。
それは、苦痛に耐え、命を投げ出して辛抱すれば、ご褒美に良いところに連れて行ってもらえる、あるいは、心の底から仏を信ずれば、この苦難から逃れられる、という交換条件、取引ではありませんでした。
仮令身止 諸苦毒中 我行精進 忍終不悔
たとひ身をもろもろの苦毒のうちに止くとも、わが行、精進にして、忍びてつひに悔いじ(讃仏偈)
この苦難の真っ只中に、仏さまも共に苦しみ泣いて下さってある。
ナンマンダブツとご一緒して下さる。有難うございます。私は大丈夫・・・。
石抱きの刑ほどではなくとも、 現代を生きる私たちにとって、現実は理不尽に満ち、思う通りにはならないことの連続です。その時に、権力に阿(おもね)るにしろ、神仏に縋(すが)るにしろ、何かの力に頼って、自らの思い通りに事を成そうとすることは、結局、同じ事です。理不尽に思われることをも、逃げることなく引き受けることができるかどうか。誰をも恨まず憎まず、許し愛していくことができるかどうか。自らの安楽ではなく、あらゆる人の安らぎを願えるのかどうか。
涙石は、その前に立つ者に、後生の一大事、仏のいのちを生きる覚悟がお前にはあるか?と静かに問いかけてくるような気がします。