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清風宝樹をふくときは いつつの音声いだしつつ~

岐阜県関市のお寺 光圓寺(こうえんじ)の巻頭言法味

清風宝樹をふくときは

いつつの音声いだしつつ

宮商和して自然なり

清浄薫を礼すべし

 

 お寺の本堂は、お浄土をイメージして造られています。各家庭のお仏壇は、このお寺の本堂の内陣(仏さまがご安置されているスペース)をコンパクトにしたもので、お仏壇の置かれた仏間が本堂ということになります。

 親鸞聖人が明らかにして下さったことは、お浄土は死んでから、の話ではなく、今、ここに働きかけられていて<今(こん)現在(げんざい)説法(せっぽう)>、感じることのできる世界だ、ということです。

 皆さんが、本堂やお仏間に座られた時には、是非、このことを思い出して頂きたいと思います。

 

 ご門徒のMさんの企画で、さとうともにさんのオカリナコンサートを本堂で開催させて頂きました。オカリナのすばらしい音色と、お寺を意識して下さった?トークは、日常生活とは全く異なる空間をつくりだしていました。

 巻頭言に頂いたご和讃は、その時、何度も頭に浮かんだご和讃です。阿弥陀経に、「舎利弗(しゃりほつ)、かの仏国土(ぶっこくど)には微風(みふう)吹いて、もろもろの宝(ほう)行樹(ぎょうじゅ)および宝(ほう)羅網(らもう)を動かすに、微妙(みみょう)の音を出す。たとへば百千種の楽を同時に倶(とも)になすがごとし。この音を聞くもの、みな自然(じねん)に仏を念じ、法を念じ、僧を念ずるの心を生ず。」と説かれたお浄土の風景を詠まれたもので、私の大好きなご和讃の一つです。

岐阜県関市のお寺 光圓寺(こうえんじ)の巻頭言法味、お浄土の風景を詠まれたもの

 

 お浄土では、気持ちのよい、さわやかな風が吹いていて、樹木の枝葉がそよぐ様はきらきら輝いて宝樹のようであり、その、ざわめきは妙なる音楽のように聞くものをしてえも言われぬ気持ちにさせ、このように世界をあらしめている仏さまと、そのみ教え、ここに安らぎ集う仲間たちへの感謝の思いでいっぱいになる。

 「いつつの声音」というのは和楽の音階で宮(きゅう)・商(しょう)・角(かく)・微(ち)・羽(う)の五音のことで、「宮商和して自然」というのは宮・商という(ハ調のレ・ミ)という不協和音がお浄土では何の違和感もなく調和して響きあうことができる、ということで、「これは実はすごいことなんです」と音楽好きの先輩僧侶がしきりに感心していた様子が忘れられません。 

 

 娑婆(しゃば)(忍土(にんど))に生きる私たちは、どうしても苦手な人、気持ちの通じ合えない人がいるものです<怨憎(おんぞう)会苦(えく)>。けれども、それは、何か大切な縁が欠けているだけなのです。あの人さえいなければ、つい、こう考えてしまうこともありますが、もし、自分が人からそのように思われているとしたらどうでしょうか?阿弥陀さまは、そのような自己中心的な考え方しかできない私たちのことを、本当に心を痛め、心配して下さって、ナモアミダブツと呼んで下さるのです。他人が許せない想いでいる時、ナンマンダブツとお念仏申してみませんか。阿弥陀さまの心配がとどくのか、そうか、まてよ、あの人との間に、どんなご縁が欠けているのだろうか?私に何かできることはないだろうか?と新たな視点をいただけます。救いとは、このようにものの見方が変わってゆくことなのかもしれません。

 「清浄薫」とは、お声が清らかに匂うさまからつけられた仏さまの呼び方です。コンサートの時には伽羅という最高級の香を焚きました。いかにもいい香りがする、と気づいて下さった方がいてうれしかったです。

 コンサートに参加された方の幸せそうな顔を拝見していて、まさに浄土の聖衆(しょうじゅ)という言葉が浮かびました。この人は、こんな人、あんな人、という決めつけを一切せずに、あるがままにその人を認め、倶(とも)にいる空間が、こんなにも気持ちがいいのだと。お浄土を偲ばせて頂いたひとときでした。合掌